昭和54年12月16日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」

 あの世にも持って行かれ子孫にも残る。しかもそれは限りなくみてるという事がないほどしの、」おかげを受けるという事が、金光様の御信心の眼目でなからなければならんし、また天地金乃神様の願いもまた、そこにあるのです。神様の願いと私共の願いが一致する。そこを真と言い又は真の信心と言うのだと。神様の願いが成就して行く。その事に奉賛させて頂くという事が、また真の信心だと言う事にもなるのです。
 ただ私の願いが成就する事のために、私の思いがなって行く、成就して行くという事が信心のように思い、間違えておる人が沢山おります。だから思い間違えるのですから、それではお徳にはなりません。もちろんあの世にも持って行けません、この世にも残しておけません。それはやはり影のようなおかげですから。まぁ金銭の御繰り合わせを頂きました、健康のおかげを頂いておりますというだけのおかげでは、あの世までは持って行かれんのです。
 けどもう皆そこから、まぁ入るわけですけれども。いよいよ神様の願いに、答えられる一つ信心を頂きたいです。今日の報徳祭のことを神様にお願いをさせて頂いておりましたら、昨日若先生が前夜祭を奉仕いたしておりました。ご挨拶を申し上げております時に、あのこういう事を言っております。お道のまぁお道のと言うよりも、九州の桂先生の流れを組む御教会では、年に4回の御大祭がある。もちろん春の天地金乃神様の御大祭、秋の教祖生神金光大神祭りである、いわゆる教祖大祭。
 それにこれは、九州の祈願のお祭りと言われる、夏の御大祭。とこの冬の御大祭。言うならば報徳祭。その4つのお祭りがありますが、夏の御大祭をもうそれこそ願って願って願い抜かせて祈願のお祭りなら、冬の御大祭報徳祭は、二代金光様四神様のお祭り。四神様あって九州に道が開けたという、九州の大恩人と言われる四神様のお祭り。三代金光摂胤乃君の神様のお祭り。これは今日の合楽は、三代金光様おわせなかったら、今日の合楽は開けていない。合楽の大恩人だと。
 そのお二方の御信心に報い奉るお祭りだと。言うてみれば夏の祈願祭に対する、願いのお祭りに対する、お礼のお祭りだという事を言ってました。私は御結界で聞かせて頂いて、まさしくそうだと思うです。お礼のお祭りです。そのお徳に報いるお祭りです。そのことを今日私、何を持ってお礼させてもらおうかと言うたら、昔あの目録を書きますと、締めていくらと書きますでしょうとね。一月にいくらいくらいくら。して最後に締めて、いわゆる合計いくらという意味なんです。ね。
 その締めていくらという事を、まぁギリギリ決着の御礼は、合楽ではおかげを頂きまして、すべての事に御の字をつけて頂けれるようになったという事が、お礼の焦点でなからなければならない、眼目でならなければならないという事を頂いたんです。もうおかげを頂きまして、今日こういう有り難いおかげを頂いております。おかげで命拾いをさせてもらいました。おかげで道が開けました。もうその内容にはあるでしょう。
 けれどもね合楽で一番、もう口を開けば頂かせて頂けれる、御教えは成り行きを尊ぶ成り行きを大切にする。いわゆる全ての事柄に御の字をつける。そこにもう金光教の信心の、限りない偉大さというものを感じる。全ての事に御の字をつける。こんな事はご無礼んな事は」めぐりをつくる元、もうそれこそ罪だ汚れだ、ご無礼だと言うて負った様な事柄が一切、そういう事にですら言うならば御の字をつけて頂くという生き方。
 もう教祖金光大神の、ギリギリの信心であると同時に、天地の親神様のギリギリの教祖金光大神に、お伝えになられた御信心の素晴らしさは、ここだと。それこそ開けてみれば愛ではない、もう開けてみらんでも愛なのだと。こんな事はしてはいかん、こんなもんな飲んじゃいかん、こんなもんにゃ食べていかんと言った様な物も、その中には入っておった。そういう事が御の字をつけて頂く限り、それはどのような事であっても、神様頂きますという心あらば当たる事も、障る事もめぐりにも因縁にもならないと。
 そういう事を覚えさせて頂いて、曲りなりにも、全ての事に御の字をつけて頂けれるようになったという事が、今日のお二方の神様に対する所の、一番最高の御礼だとこう言う。そう言われてみて皆さんどうでしょう。どのくらい全ての事に自分の都合のよか事にゃ御の字をつけよるけれども、都合の悪い事には御の字をつけにゃん事は分かっとるばってん、つけておらんというのが実際実感ではなかろうか。それをなぜつけなければいけないかという事だけを、合楽理念では説き明かしてあるのです。
 困った事だ難儀な問題だと言うておる間は、まだ本当に御の字をつけられていないのだ。おかげで信心が出来ますという、私はところに立たなければいけないと思うんですね。昨日はお祭りが終わった後、15日の富久信会でございました。文男先生が司会をして、まぁ色々まぁ有り難い話を聞かせて頂きましたが。中に岡崎さんが発表しておりました。商売に出られるんです。今までまだ信心を頂くようになって十年余りですけれども。とにかく商売に出て帰って来ると、家内が言いよりましたち。
 今日は商いがあったばいのちこう言う。今日はお父さん商いがなかったじゃろうち、こう、もうそれこそこの中を見と通すようにして、言いよりましたと。ところが最近では、今日は商いがあったかなかったかがね、その見境がつかんごと、私はおかげを頂いておるという話を致しました。素晴らしいでしょう皆さん。信心させて頂いたらね、やはり思い方考え方が変わって来なきゃならんのです。言うならば全ての事に御の字がつけられるというんですから。
 今日は売れじゃったから、もうグラグラしたと言った様な顔はない。またク―ッとした顔もない。それが今まではハッキリしていた。今日は商いが良い商いがあったと思うとニコニコで帰って来る。はぁお父さん今日は商いがあったばいのち、家内が言いよった。そんな積りじゃないけれども、どことはなしにクーッとした顔をして帰りよっただろうと、こう言うのです。今日は商いがなかったじゃろうお父さんとこう言う。もういちいち自分の心を見抜き見通して、そのと言った様な話でした。
 所がこの頃はその見境がつかんごつなった。そりゃ売れる事もありゃ売れない事もあるけれども、それこそ全ての事に御の字をつけて頂いておる。今日もけっこうな修行させて頂いて有り難いという、心の状態で帰るという意味であろうと、聞きながら思うた。皆さんそげな風に変わらにゃいけんです。十年かかったってそれだけの事だ出けるように。もうそれだけの事を頂いたら、もう確かなものだと私聞きながら思うた。
 自分の都合のよか時にはニコニコ、都合の悪い時にはブーっとした顔しとると言った様な事では、今日の例えば御大祭にです、何を持ってお礼とするかと。という事になるのじゃないでしょうか。ね。その為にはねもう絶えずいつも自分の心の中に、神様のその御働きそのものがです、私にかけられるところの神様の御思いであるという事を、分からせてもらわなければいけません。
 昨日宮崎の高橋さんという方が発表しておられました。素晴らしいお話でした。昨日もう本当に、私はいつもあの高橋さんに関心するんですけれども。あの果物かごをねお供えを神様と御霊様へのその盛りかご、かごを作ってお出でられとるんです。それが全部かずらで出けてるんです。それはもう見事に作ってある。でそれをあのお供えをさせて頂こうと思うて、まぁ慣れたお山でしょうからあそこにはかずらがある苗が分かる。
 そこでそのかずらを取りに行かれたところが、もう本当にもうわずかしかなかったと、こう言うのです。そん時に思うておられる事が素晴らしい。こういう時に、神様とお話し合いが出けたならばと思うたち。あぁそちらへ行ったってないぞと、こちらへ行けばあるぞと神様が教えて下さるようになったら、どんなに素晴らしい事だろうという意味の事を話しておられます。とにかく私の私利私欲のためじゃない、言うならば神様のお道具に使うて頂こうという思いが真心。
 それを一心。そしてそのかずらを取りにやらせて頂きましたけれども、ございませんでしたと。本当にこういう時に神様とお話し合いが出けるごたる、おかげをお徳を頂いたらどんなに素晴らしい事だろうと思わせて頂いて、お願いをさせて頂きながら、あるところに行かれたらもう沢山あったと。もう夕方になって帰らなければならんと思うても、まぁだ取りやめられんくらいに、そこには沢山あったとこう言う。
 これは皆さんそうですよ。自分の力とか又は自分が当てして、昔から当てと何とかは向こうから外れると言うでしょうが。神様のおかげを当てしちゃいかんです。でなかったら、下さるものが有り難いものになって来ないです。私がこうしてあぁしたから、これが頂けた事になるんです。当てせんでおると神様が下さったその十が十なら、そのまま有り難しで受けられるのです。だから一月試してみてごらんなさい。
 あそこからいくらもろうちからあそこからいくらすると、明日の支払いが出くると言うて、当てしとるとね、まぁおかげを頂かん時と思うて間違いないです。なぜって神様が本当のおかげをおかげと、分からせようとなさる働きが起こって来るからです。だから信心がない時には当てしとったのが当てにしたりこう。信心させていよいよ頂くようになると、当てしたのが当てにならんです。神様の信心はだんだん本当に分からせて頂くとです。だから当てのないもの。
 自分で当てしてないものが、御繰り合わせの中に頂けてくる。もうそん時の喜びというものは十頂いておるなら、十がそのまま有り難いとお礼が言えれる訳です。当てしとったっちゃけん。もうちゃんと当てしてある。御繰り合わせを頂いた事は頂いたばってん、やっぱ当てしとったっちゃから、という事になるのです。有り難さというものがやはり、もう十よりも同じ事柄でも、十の有り難さを感じうる人、百も千もの思いでそれをおかげと感じれれる人。信心が進んで行くという事はそう言う事だと思う。
 今日お生かしのおかげを頂いておるという事が有り難い。それを十思うておる人百を思うておる人。千も万もの思いで思うておる人。信心が進んで行くという事は、そういうことだと思うんですけれども。信心をすれば誰でもお徳が受けられる。しかもみてるという事がないというほどしの,おかげが頂かれると、教祖様はハッキリここに教えておられますけれども、金光教が誕生して言うなら百年。
 百年の間に誰でも受けられるという御神徳を受けた人が、どれだけあるだろうかと。まぁ言うならほとんどの人が、おかげは受けたけれども、御神徳は受けてないということになるのじゃないでしょうか。私は最近もう合楽ここでお取次ぎさせて頂いてから、あのう有り難いなあと思うことはですね、私皆さんご承知のように、この御神米は御初穂に対して下げる時もありますけれども、手にかかるだけ一掴み一掴みを、あの差し上げるんです。最近はねあの四体という御神米が非常に多いこと。
 次に六体という御神米が多い事。また八体という御神米が多い事。驚くばかりです。皆さんがね四体というのは、三代金光様の御時代に、自分の信心のめざしというものが、金光様から四体の御神米が下げて、頂けれるような信心を頂きたいという風に申しましたね。だから四体というのは、私はどういう意味か知らんけれども、そんなに素晴らしい事なんです。皆さんどうですか。いつも四体ちゅう人があるでしょうが。あれはもう確かに神様が受けてござる御信心です。
 六体という時にはそれがそのまま、お徳になって行きよるという事です。だから神様が受けて下さる神様がお徳として、なら受けて下さってもです、それを帰りがけにはまたこうやって露の如くして、行ったらどう言う事になりますか。折角今日の信心は神様が受けてくださった。今日の信心はこういう信心を続けると、お徳になるぞと言われるようなお徳もね、受け損なうたらどうなります。心一つでそれを頂き貯めて行く事が出ける、またそれをさんまにして行ってしまう、と言う様な事にすらなりかねないです。
 八体と言やぁもうおかげになるぞ、広がりに広がると言う様な意味で頂きます。本当言うたら、やっぱり七体なんかを頂いて、下げて頂いた時が、だいたい有り難いです。七体というのはこうやって曲がっとる。だから改めよと神様が仰っておる時です。まっすぐすりゃプラスになる。七という字はこう曲がっとるでしょうが。だから七体がずっと頂けるごつなったら、素晴らしい信心が進むでしょうね。毎日自分の改まるという事に、心受けさせてもらう。
 言うならば曲がっておる七でもちょっと心がけると、立つという字になるプラスになる。そういうまっ信心ですけども合楽の方達が、だからそういう四体六体八体というように、御神米を頂きつづけておられる方達がです。それを言うなら反故する事もなしに、それを頂きつづけ頂き貯めて行ったら、教祖の神様の御信心いや、教祖様がおっしゃっておられる信心をすれば誰でもお徳が受けられるというお徳になる。頂いちゃ返し頂いちゃ戻しじゃいかんです。
 それを頂き続けさせて頂かなければならない。為にはいよいよ持ってです、すべての事柄に言うならば御事柄としての、頂き方が出けるようになるならばです、教祖の神様が仰っておられる、このあの世にも持って行け、この世にも残しておけるという御神徳が頂ける事になるのです。それに伴うところの言うならば限りないおかげ。みてるという事のないおかげをです、頂ける信心にならなきゃいけません。
 言うならば皆さんの信心の総決算、締めていくらと言うならば、今日神様にお礼を申し上げるならば、締めて私は、おかげを頂いて。このくらいな事までは御の字がつけられるようになりました。全ての事に御の字をつけて頂いております。そこにです物の見方考え方それこそ岡崎さんじゃないですけれども。こちらの腹の中が家内に読めないくらいに、段々育って行くおかげを頂かなければならない。
 それにはね、私どもは日々もう一切が神様からの頂き物。当てしておってのが入って来たのじゃない。一切が神様のおかげを頂かなければ出けない。そこから高橋さんが願っておられる。それこそ神様とこういう時にお話し合いが出けたら、どんなにか素晴らしい事だろうという事になるんです。そこまでお互いの信心を進めて行きたい。今日のお礼の焦点はそこに置きたい。
   どうぞ。